J 「右が左、左が右、難儀の先にあるおかげ。神の大恩を知る。心が豊かになる」昭和五十七年六月十六日 朝の御理解
御理解 第七十八節 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそ           ろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にか           のうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もある           が、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、           また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう           神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して           神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年           まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」
 神のおかげを知らぬから互い違いになってくると仰せられる。願うた事が成就するね、そういう事が、そういう事だけがおかげと思うたり、有り難いと思うたり、勿論おかげですけども、そこで、そのおかげを知るという事が先ず、信心であり先決であるという事がわかります、ね。
 ま、ここにはおかげを知らぬから互い違いになると仰せられる。だから、その互い違いになる事、その事がおかげとわかった時に、も、互い違いもなからなければ、難儀という事はないわけですよね。
 信心が難しいというのはそういうところだと思うです。只、お願をして思わぬおかげを頂いたと、願がかのうたと、ま、これをみんなおかげと言い御利益と言うのです 信心とはそれを頂く為のあのような観念がお互いの心の中にあるんですね。そういう観念をやっぱりイメ-ジアップしていかなければいけませんね。互い違いになるといわれるその互い違いそのものの中に神のおかげがある。も、格別の神愛が秘められてあるのだとわかった時に、苦しいです、けれども有り難いという事になるでしょうが。そこにはもう、いわゆるおかげを知った事になります。そういう信心を基礎として、いよいよ神の大恩がわかるという事になるのです。ね、
 神の大恩を知れば無事健康で子孫も続き、いわゆるもう、お徳の世界です。ね、そういうところを合楽では非常にこう微妙に説きますですね。これも私自身が体験してきた事をもまじえて聞いてもらいます。
 七十八節ね、七の間はなかなか苦しいですけれども、それが一つ超えて八になるという事は、ね、だから信心の稽古のまあ対象と焦点とするところをです、ね、まあ、これは普通から言えば難儀である困った事であるとこう、その難儀な事、困った事をです、ね、なら、それこそ泣く泣くでも辛抱してそこを頂きぬいていって、ははあ、あれはおかげの元だったなあ、あの時に力を受けていったんだなあという事がわかってくるね、それがわかってくればくるほど、いうならば、互い違いになっていくというその事も有り難いんだと、昔、私が頂いた御理解の中にね、例えば、あの鼓という楽器は千鳥がけというあの紐がかけてあります千鳥がけです、こうね、×の字×の字になっていくまっすぐは張ってないね。右と願っても左、左と願っても右というような千鳥がけ的なところをもう一つぎゅっと真ン中を締め上げた時にあの鼓の本当の音色が出るんだというような御理解を頂いた事がある。
 思うようになる時には、それは本当のおかげじゃない、願っても願ってもね、右が左、左が右となる時こそ神の願が成就している時といわれる。その向こうに夢にも思わなかったようなおかげの展開があるんだというようなみ教えを頂いた事がありますが、その千鳥がけの時にそれをおかげとわからしてもらう信心。
 辛い、そん時には苦しい。昨日高橋さんからお届けがあったんですけども、もう、大変おかげを頂いたというお届けがございました。
 というのは、もう、それこそどんなに思うてもお断りに行けそうにないところに、夫婦が話あって、夫婦でお菓子箱の一つも持って断りに行って、今日は又どげなふうに言われるやらわからんと、も、腹をくくり決めて行った。ところが向こうはもう、にこにことして、その、ま、持って行ったお菓子箱を喜んで受けられたと。
 本当に私はもう、若先生が今度御本部行をされる時にね、どんなに馬鹿にされるような事があっても、も、今度はもうこれで受けていこうと腹を決めて行かれたらね、馬鹿にされるどころではない、ま、むしろ、あちらこちらから合楽の若先生、合楽の若先生と言うて、ま、いうなら面目をほどこしたという話を思い出してね、それこそまあ、いうならば、腹を決めて夫婦の者がお断りに行ったら、ま、それこそ大変なカミナリが落ちるだろうと思うておったけれども、おかげでにこにことして持って行ったお菓子箱を喜んで受けてもろうたとこう言うのである。
 だからね、一事万事がそうなんです。腹を決めるという事なんです。ね、そういう体験が受けた時になるほど、これもおかげであると互い違いになるという事ね。
 私の過去の信心を聞いて頂くとそういうところばっかりですから、も、それこそ修行から修行。断食から断食といった時代のその頃の写真を見るとね、それこそ、身体がくの字になってるように痩せております。その時分でもです、なら、私の心の中にはたぎるような喜びがあったんです。久保山先生は言うておられました。「大坪さんほんなこてこの苦しい時、ほんなこてそんなに有り難いのですか」ち言うていわれよりました。有り難かったです、ね。だから、そこんところの心を開かせてもらうという事が七から八に移っていく事なんです。ね、
 私は信心の徳というものは、も、長年しよれば徳を受ける事は、も、絶対ないですね。いうなら、本当の事がわかって本当の事に対する、いうならば、神恩報謝の心、今日の御理解で言うとね、神のおかげを知るという事。そんなら互い違いになる事は難儀な事かというと、なるほど難儀な事ではありますけれども、それもおかげであるとわかる時に、もう、全てがおかげという事になってくるです。はじめて神の大恩という事がはっきりわかってくるわけです。ね、
 神の大恩を知れば無事健康で子孫も続きと仰せられるのですから。昨日、富久信会でございましたが、皆さんの話を聞かせてもらいましたが、確かに合楽の皆さんの場合はですね、あのやっぱ、神秘の世界にもう、入ろうとしておられるところを聞かせてもらいました。いわゆる素晴らしいタイミングですね。ですから、これが、なら例えば、ま、いうなら、小さいとか大きいとかという言葉にあたらんかも知れませんけれども、小さいタイミングですから、なら、大きな豊かなタイミングになっていく、そこんところの精進がおろそかになってるようであるね。これで一回り大きくなれるな、これで豊かになれるな、これで大きくなれるなという事が本当にわかったらね、大きくなる。いうならば、ま、昨日の御理解でいうとね、いよいよ十里の坂を登って登り切って向こうへ降りたら安心じゃと仰せられる。その手前のところで堂々回りをしておる。どういうところで堂々・・・・・確かに神様の働きの素晴らしさ、タイミングのまあ素晴らしさを感じとるしわかっとるんだけども、それが育ってないわけです。だから、いつまっでも例えば、その日暮らしが出来てるようであっても、それがきつい、きついその日暮らしになってしまっておるね。
 百円のその日暮らしから千円、千円のその日暮らしから一万円のその日暮らしが出来るようになるとね、例えば、どんなに借金があっても、それが有り難い事になってくる。有り難く利払いが出来て例えばいくというならね、借金というその重みすら感じない、大きくなっていけばいくほどに、ね、だからそういう時に、私は、今日の御理解ね、いわゆるおかげと知らなければいけない。
 神のおかげを知らんから互い違いになる。そんなら神のおかげを知るという事は願った事が成就した事だけがおかげではなくて、右が左、左が右というような時であっても、それをおかげと悟るという事であるね。
 その事に対して叩かれりゃ確かに痛い事は痛いけれども、痛いけれどもどこから湧いてくるかわからんような信心の喜びに触れる事が出来る。そこに、いよいよ神様の深い思いがわかり、大恩がわかる。ね、お徳の世界に住んでいく事が、このへんのところをですね、私は、も、合楽ではこんなに、例えば、そのかきくどくようにして皆さんにに聞いて頂いておるのですから、そこんところのいよいよ、実験、実証をですね、なさらなければいけません。
 成り行きを尊ぶとか黙って治めるとか、いっちょん成り行きを尊びよらんもん、ひとっつも土の心になりよらんもんね。それを徹して、私は行くという事がですね、貫かせて頂くという事が神のおかげをおかげとわからしてもらうという事です。ね、
 その為にはやっぱりね、何て言うでしょうかね、心がやっぱ信心に燃えておらなきゃならんね。いうならば、もう、その事一途にならせてもらわなければいけんね。
 普通ででけない事が、普通で頂けないところが頂けれる、腹が決まる、そこから私はいよいよ本当な意味においての神の大恩がわかる。
 いつも申しますように、ね、こうやってお生かしのおかげを頂いておるという事が神の、いうならば、御恩恵の中にあるんだよとね、なるほど、神の御恩徳は話を聞けばすぐわかる。一掬いの水でもね、呼吸させて頂いておるこの、ま、息をさして頂いておるという事もね、神様の御恩恵という事もわかるのだけども、そういう意味ではなくてですね、神のおかげをおかげと知る時にはじめて神の大恩という、神の大恩がわかる時だと私は思うです。ね、
 そこがわかるところに稽古が要るというのです。その稽古をおろそかにして、そういう、いうならばおかげは頂かれません。
 稽古をするという事は只、参ってくるというだけじゃない。本当に教えを忠実に本気で行じる。行じる事は難しい。それこそ高橋さんじゃないけれども、腹をきめなきゃ出来るこっちゃない、ね。その向こうに、いうならば、七から八に広がっていく実験が出来る。一事が万事この方じゃと、一つの大きな悟りになってくる時にね、あれもおかげ、これもおかげであるとわかる。
 真の信心がそこにある。そこからわかる神の大恩でなからなければ、無事達者で子孫も続きというようなおかげにはならない。ね、
 千鳥がけ、それは苦しい事だけども、その上に又、ぎゅっと締めあげられるという事は、なお苦しい事だけれども、はじめて信心の本当の音色が出るのである。
 そこにはね、願うた事の成就じゃない、願うた事が右になり左になる。そこんところをおかげとわかった時に、そこの向こうには広がりに広がる、いうなら、夢にも思わなかったようなおかげの世界が広がっていくのですから、信心の稽古というのは、そこんところをね、私は日々実験していく事だと思うですね。
                        どうぞ。
 お互いがね、この楽になりたいと思うでしょう、ね。そんなら、楽になるという事はね結局、自分の心が豊かに大きゅうなる事以外にはないです。ちょいとした事が心配になる。ちょいとした事が腹が立つ。それではね、だから、も、いよいよもってです心が豊かに大きゅうなるという事が楽になる事だ。そこには本当な意味においての楽なおかげ働きにはなってこないですね
             どうぞ。